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2009年01月 アーカイブ

2009年01月11日

治虫が5歳のときに一家は兵庫県宝塚市に移った

1933年、治虫が5歳のときに一家は兵庫県宝塚市に移った。戦前の宝塚は田園風景の中に新興の住宅地が散在し、その中心に宝塚大劇場、宝塚新温泉(現宝塚ファミリーランド)、宝塚ルナパーク(現宝塚動物園)などの施設が立ち並び一種の異空間を形作っていた[9]。このような人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる[10]。父は宝塚ホテルのなかに作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治虫は父に連れられてホテルのレストランで食事をし、母には歌劇団に連れて行ってもらっていた[11]。また手塚家の隣家は宝塚歌劇団の実力者である天津乙女の家であり、歌劇学校に入学したい娘が父兄とともにお百度を踏む光景がよく見られたほか、歌劇団の女性と接する機会も多かった[12]。

1935年、池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)に入学。体が小さく、また小さい頃から眼鏡をかけていたこともあり学校では「ガジャボイ頭(天然パーマ)」などと言われからかいの対象になった。そのようななかで同級生の石原実という人物と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる[13]。手塚家の広い庭は虫の宝庫であり[14]、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境であった[15]。ペンネームの「治虫」も甲虫のオサムシにちなんで小学4年生のときに作ったものである[16](なお1950年頃までは「治虫」は初期にはそのまま「おさむし」と読ませていた[17])。

治虫は幼いころから見よう見真似で漫画を描くようになり、とくに小学4年生から5年生にかけて懸命に漫画の練習をした[18]。小学5年生の頃ノートに1冊分の漫画を書いて学校に持っていった時には担任の教師に取り上げられ、叱られるものとばかり思っていたらじつは職員室で回し読みされていて、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという[19]。こうして漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなり、誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた[20]。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治虫の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた

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2009年01月18日

ドイツ騎士団(独: Deutscher Orden)

ドイツ騎士団(独: Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(ラテン語:Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum)。英語では Teutonic Knights と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。

本来は12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立されたが、イスラム教徒に根拠地を奪われ、パレスチナを離れた。1226年バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛するためにポーランド貴族に招聘され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民(de)の先駆けとなった。

ドイツ騎士団の成り立ち
ドイツ騎士団の前身は、エルサレム王国がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会である。病院を運営した兄弟団は1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、総長を頂点とする騎士修道会に再編成された。1199年ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。

ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退とともに、活動の場をパレスチナに見出すことができなくなった。そこで、1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァ(de)はハンガリー王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り、同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され、周辺のクマン人に対する防衛を担った。これが後に、聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになる。

ヘルマン・フォン・ザルツァは優れた政治家で、やがてハンガリー王国の従属から離れ、ドイツ騎士団の国を創り上げようとした。1224年、ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功した。しかしこの動きに激怒したアンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し、1225年に騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。

バルト海南岸の異教徒の地
本拠地を再び失ったドイツ騎士団であったが、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。1225年の暮れ、今度はポーランドのワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマゾフシェ(マソヴィエン)公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請された。この要請は後に「ポーランド史上最大の誤り」と言われる。

ともあれ、ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉して、1226年のリミニ金印勅書で騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認められた。これは異教徒の先住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen, 英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有する権利を保証するものである。1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられ、満を持して先住プロイセン人の土地の征服に着手する。
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騎士団は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させた。さらに征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。

ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として宗教的共和国とも言える統治体制を築いた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていた。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はドイツ騎士団の下で発展を遂げた貿易都市である。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。一方エルビンクとはライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返すこととなった。また、実はエルビンクの住民もドイツ騎士団による支配を嫌がっていた。1410年にドイツ騎士団がタンネンベルクの戦いで敗北する(次項参照)とエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1569年には正式にポーランド王国に加盟することになる。

騎士団は1237年にはラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し、事業を続行した。しかし、エストニアの領有をめぐってデンマークと争うことになり、また東の正教国のノヴゴロド共和国との争いでは、1242年チュード湖の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロドの軍に破られた。プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは異教徒のリトアニア大公国が誕生し、ドイツ騎士団はこの強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。

2009年01月26日

無伴奏チェロ組曲

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲(ドイツ語: Suiten für Violoncello solo)は、チェロ独奏用の楽曲で、以下の全6曲を指す。

無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007
無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調 BWV1008
無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調 BWV1009
無伴奏チェロ組曲第4番変ホ長調 BWV1010
無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調 BWV1011
無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調 BWV1012
作曲年代は明らかでないが、その大部分はケーテン時代(1717年-1723年)に作曲されたらしい。ケーテンの宮廷オーケストラは12人の楽師で構成されており、そのうちのチェリストであった、クリスティアン・フェルディナント・アーベルのために書かれたという説もある。近年、ヴァイオリンのように肩にかけて弾く小型のチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ)が復元され、ヴァイオリンの無伴奏曲と同様にバッハ自身が弾くために書かれたとする説も浮上している。ケーテン時代には、ブランデンブルク協奏曲やフランス組曲、イギリス組曲など、6曲構成の楽曲が作られているが、この時代に3の倍数が好まれたことが影響していると見られる。バッハの妻アンナ・マクダレーナの写譜が残っており、これは長い間自筆譜と考えられてきた美しいものである。

その後、単純な練習曲として忘れられていたが、パブロ・カザルスによって再発掘されて以降、チェリストの聖典的な作品と見なされるようになった。現代においてはバッハの作品の中でも特に高く評価されるものの一つである。コントラバスやヴィオラ、ギター、サキソフォン、フルート、ホルン、マリンバ、エレキギターなど他の楽器に編曲、演奏されることも多い。

楽曲解説
6曲の組曲は、それぞれが前奏曲(プレリュード)で始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエット(第3番・第4番はブーレ、第5番・第6番ではガヴォット)、ジーグの6曲構成となっている。組曲ごとにひとつの調性で統一される。各楽曲はプレリュードとアルマンド(元来舞曲であるが当時その性格は失われていた)を除いて舞曲であるが、一見単純な構成のなかに多声的な要素が盛り込まれ、重音奏法も駆使して一つの楽器とは思えない劇的かつ多彩な効果を出す。

演奏技術的には、番号順に難しくなる傾向にあるが、第1番はチェロを始めて2年から3年程度で挑戦可能とされ、第2番は一部に困難な運指があるものの、第1番とほぼ同程度の難度であり、第3番までなら演奏自体はそう難しくない。しかし、音楽の内容を汲んだ表現となると、生涯をかけて研究するほどの対象とされる。また5番はスコルダトゥーラを前提とし、6番は5弦の楽器のために書かれているため、現代の一般的な楽器で演奏するには高い技術が要求される。強弱やボウイングなどについて、さまざまに解釈、編曲された演奏譜が出版されている。

第1番ト長調 BWV1007

バッハの妻アンナ・マクダレーナによる無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007の写譜前奏曲(Praeludium)
4分の4拍子。アラベスク的な分散和音が移り変わっていく。クロイツェルの練習曲13番に引用され、現代においてはさまざまに転用、利用され、全曲中でも最もよく知られる曲となっている。
アルマンド(Allemande)
二部形式、4分の4拍子。穏やかな曲調。
クーラント(Courante)
二部形式、4分の3拍子。軽快な3拍子の舞曲。
サラバンド(Sarabande)
二部形式、4分の3拍子。重音を使って落ち着いた雰囲気を出す。
メヌエット(Menuetto)
三部形式、4分の3拍子。中間の第2メヌエットはト短調。
ジーグ(Gigue)
二部形式、8分の6拍子。急速な舞曲。

第2番ニ短調 BWV1008
前奏曲
4分の3拍子。問いかけるように上昇する音型から始まり、次第に熱がこもっていき、最後は五つの重音の連続で結ばれる。この部分を分散和音や装飾音を使って即興的に演奏する例もある。
アルマンド
二部形式、4分の4拍子。重音や低音部を使って重い雰囲気を出す。
クーラント
二部形式、4分の3拍子。細かい音型で多声的。
サラバンド
二部形式、4分の3拍子。同じ音を2本の弦で奏して始まる。後半は短調のなかでも憧憬を感じさせる。
メヌエット
三部形式、4分の3拍子。ここでも重音を駆使して、端正な造形に熱情的な要素を盛り込んでいる。中間の第2メヌエットはニ長調で軽快なもの。
ジーグ
二部形式、8分の3拍子。歯切れの良い下降音型が繰り返され、多声的に展開する。

第3番ハ長調 BWV1009
前奏曲
4分の3拍子。主音から舞い降りるように順次下降する旋律がスケール大きく展開される。後半の波のような分散和音の連続から重音の連続に至る過程は圧倒的な高揚感がある。
アルマンド
二部形式、4分の4拍子。他のアルマンドと比べて律動的。
クーラント
二部形式、4分の3拍子。勢いよく急下降する主題が多彩に展開される。
サラバンド
二部形式、4分の3拍子。重音で問いかけるような音型が奏される。
ブーレ(Bourree)
三部形式、4分の4拍子。高音部と低音部が会話するような第1ブーレは親しみやすく、よくしられるもの。中間の第2ブーレはハ短調。
ジーグ
二部形式、8分の3拍子。重音を伴って上昇する音型が華麗に展開される。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

第4番変ホ長調 BWV1010
前奏曲
4分の4拍子。広い音域を上下する分散和音が繰り返されながら、次第に短調に傾いていく。後半は細かい音型や重音を織り交ぜながら劇的になる。全曲中でも抽象性を強く印象づける曲。
アルマンド
二部形式、4分の4拍子。流れるような細かい動きと音程跳躍の対比が見られる。
クーラント
二部形式、4分の3拍子。歯切れ良い主旋律になだらかな三連符がリズムの変化を与えている。
サラバンド
二部形式、4分の3拍子。重音と高音域をよく使って、きめの細かな印象。
ブーレ
三部形式、2分の2拍子。主旋律は音階を駆け上がるような快活なもの。第2ブーレも同じ変ホ長調、重音と単純なリズムで素朴さを出している。
ジーグ
二部形式、8分の12拍子。軽妙な終曲。節の終わりをくくる低い主音がユーモラスな味を出している。

第5番ハ短調 BWV1011
チェロのA弦(音域がいちばん高い弦)を低くGに調弦して弾くことを前提に楽譜が書かれている。このような手法をスコルダトゥーラ(変則的調弦法)という。A弦を緩めることによって音量や音の張りなどに不利が生じることを理由として、通常の調弦のまま弾けるよう簡易に編曲された楽譜をもって演奏されてきた。現在では本来の響きの良さを求め、技巧的に難易度が高くなってもオリジナルの楽譜通り演奏するチェリストも増えている。

なお、無伴奏リュート組曲第3番BWV995と、調を除き同一の曲である(ト短調)。

前奏曲
4分の4拍子-8分の3拍子。フランス風序曲の様式で書かれていて、大きく2つの部分に分かれる。前半は重々しく即興的。後半にはいると、新たな主題がフガートのように多声的に展開され、最後にハ長調の主和音で結ばれる。規模雄大な曲。
アルマンド
二部形式、4分の4拍子。重音と付点リズムが荘重さを印象づける。
クーラント
二部形式、2分の3拍子。前打音と節の結びのリズムが特徴的。
サラバンド
二部形式、4分の3拍子。重音を全く使用せず、半音階を多用する瞑想的な音楽。
ガヴォット(Gavotte)
三部形式、2分の2拍子。二つの前打音を備えたガヴォットのリズムと重音が生かされている。第2ガヴォットもハ短調。三連符でなだらかに流れ、主部との対照を形作る。
ジーグ
二部形式、8分の3拍子。付点付きリズムが支配的。途中、小節をまたぐタイによって音楽が不意に停滞あるいは宙に浮くような印象を与えるのが独特。

第6番ニ長調 BWV1012
この曲は、通常のチェロに高音弦(E弦)をもう1本足した5弦の楽器用に書かれている。その楽器とは、バッハが考案したともいわれるヴィオラ・ポンポーザだとする説もあり近年復元され度々演奏会で使われるようになった。この楽器はヴァイオリンのように肩にかけて弾く小型のチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ)で音域もチェロと同じである。その他古楽器による演奏では、やや小振りで足に挟んでかまえるチェロを使用する例が見られるが実際にバッハがどのような楽器を想定していたかは分かっていない。現代楽器では、一般的なチェロで弾かれることが多い。高音部を多用しており、現代チェロで弾くと緊張感の高い音色となる。4弦の楽器で演奏するとハイポジションを多用することになり、演奏が難しい。

前奏曲
8分の12拍子。バッハの楽譜としては珍しく、初めの部分にフォルテ記号とピアノ記号(同じ旋律の繰り返し部分)が記入されている。二つの弦で同じ音を交互に奏して効果を出している。輝かしい音楽。リトルネッロ形式で書かれている。
アルマンド
二部形式、4分の4拍子。高雅で非常に細かい音符で書かれており、通常よりゆっくり演奏されることが多い。
クーラント
二部形式、4分の3拍子。快活さで一貫している。流れるような指運びとスムーズかつリズミカルな音だしが要求される。
サラバンド
二部形式、2分の3拍子。重音を多用、踏みしめるように順次下降する和声進行が優雅で美しい。
ガヴォット
三部形式、2分の2拍子。明朗なガヴォットで、よく知られる。第2ガヴォットもニ長調、より多声的になっている。
ジーグ
二部形式、8分の6拍子。規模が大きく、壮麗な終曲。

無伴奏チェロ組曲の名演奏
チェロのための代表的な楽曲であるだけに、古今の世界的チェリストが競って録音している。ここでは、一般的に世評の高い演奏者を挙げておく。

現代楽器による演奏
パブロ・カザルス
ピエール・フルニエ
ポール・トルトゥリエ(2回録音)
ヤーノシュ・シュタルケル
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(一部2回録音)
ミッシャ・マイスキー(2回録音)
ヨーヨー・マ(2回録音)

古楽器による演奏
アンナー・ビルスマ(2回録音)
ピーター・ウィスペルウェイ
鈴木秀美(2回録音)

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